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いだてん 第20回

第20回 恋の片道切符

アントワープのオリンピックで開催されなくなったマラソンは嘉納のクーベルタンへの手紙が功を奏したのか復活。
選手の渡航費も体協から出ることになり選手の選考に入っています。
野口は四三が持ち帰った用具からはじめた10種競技で出場する事に。水泳は浜松の内田選手に決定しますが当時日本は古来の泳法でクロールの経験がありません。違いが説明されていますが日本の泳法で行くようです。

志ん生の高座から浜松の孝蔵の回想へ。
東京ではシマが早朝から走っています。四三と出会い、女子のスポーツについての二人の話しが入ります。
日本では女子のオリンピック選手などまだ話にもなっていません。
二階堂トクヨは女子スポーツに熱心ですが彼女の考える競技はダンス?

二階堂に古いと言われた永井はスポーツ教育から引退を決意します。
そして大正9年、オリンピックの壮行会が開かれます。
選手13名、主将は野口、監督は可児ではなく東大卒の弁護士辰野保です。
一行は横浜から船でアメリカへ、アメリカを横断して再び航路でロンドンへ。
その船は名前もオリンピック号~確かタイタニックの姉妹船だったかと。
四三は退職して自費でオリンピックに参加しています。
熊本で応援するスヤと幾江の様子が入ります。
何故か二階堂の見合い話も。まだ結婚したくないからシマに代わりに行って断わって来てくれと言うような話が突然に出て来ます。
ロンドン到着前に旅券の検査から隠していた四三の結婚がばれてしまいます。ついでに野口も妻子がいることを告白。

1920年(大正9年)アントワープオリンピック開催!
三島弥彦と再会します。8年前はたった二人の参加だった、と感無量の様子です。
競技の様子は書かれずに3カ月後東京で報告会が開かれています。
主将の野口が報告、テニスの熊谷一弥選手がシングルス、ダブルスともに銀メダルを獲得、日本初のオリンピックメダルでした。
主将野口は12位と最下位しかし出場選手半数が棄権する中、最後まで競技して悔いはないと言います。
他の選手たちも予選敗退、失格、棄権と振るわず特に水泳はクロールに完敗、指導者の必要性が指摘されます。
そしてマラソン、報告会に四三の姿はなく選手からの報告、35Kあたりで失速16位でした。しかし完走しました、8年間走り続けた無理がたたったのではと報告されます。
ここで二階堂が発言。廃止が決まっていたマラソンを日本がメダルをとれるからと復活させたのに金栗は負け、日本は国際舞台で恥をかいた、この責任は誰がとるのかと。
その言葉にスヤが発言します。金栗は負けてはいない。日本人で初めて完走した。16位でも自分にとっては金メダルだ、と。
しかし二階堂は続けます。オリンピック優先の姿勢を改めなければ体育の発展はない。

嘉納は体協から身を引く事を決心します。
その頃四三は戦火のあとの残る欧州をアントワープからベルリン迄さまよって来ていました。
職も無く帰るに帰れない四三の傍らで槍投げを練習する女子選手の姿がありました。
予告を見た所では次は女子の体育が書かれるのでしょうか。

紀行はテニスの熊谷選手のエピソードなど。日本では硬球が高価だった為安いゴムボールを使った軟式テニスが盛んで熊谷選手も軟式のスタイルのまま競技したとの事など。

相変わらずのハイテンション、疲れる事に変わりはなく二階堂トクヨの見合い話が唐突に出て来たり、独身と思われている四三の相手は誰か、など必要とは思えない話が出て来て、オリンピックの話しは報告だけとか、一寸肩透かしにあったような気がしました。

私ごとですが先日友人たちと会った際このいだてんの話が出ました。
一緒に歌舞伎を見に行くことの多い友人たちですが、勘九郎さんが痛々しくて見ていられない、ともっぱらの評判でした。
皆私も含めてお父さんの勘三郎さんが勘九郎、現勘九郎さんは勘太郎時代から殆どの公演を見て来ただけに彼の使い方などにはかなり辛辣な意見が出ましたね。
熱演だし上手ではあるけれど魅力が全然出ていない、現代のドラマでは華が感じられなくて、もう見ていられないと。
勘三郎さんファンだっただけに何と言ったら良いのか。
気乗りがしませんが気になってつい見てしまうし、下手なレビューもつい書いてしまうのは本当に困った事態です。

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