八重の桜

会津藩兵の洋式訓練

前回浩さんの軍装について思った事を書いて見ました。
書きながら思った事ですが会津藩が軍備を洋式に改め訓練を始めたのは鳥羽伏見の戦いの後ですね。
以前から銃の購入など装備に力を入れ始めてはいたようですが、洋式の訓練は鳥羽伏見で敗れ大阪から引き揚げた時まだ日本に滞在していたフランスから派遣された幕府軍事顧問団に習ったようです。

八重の桜では「第22回 弟の仇」で扱っています。
川崎尚之助が訓練の指揮を執り大蔵と頼母が傍で見ているシーンでした。

「ねずさんのひとりごと」と言う有名な人気ブログがあります。
この「ねずさん」は大変博識な方で色々興味深い記事を載せていらっしゃいますが山川大蔵について「滅んでも勝つ・・・山川大蔵」と題して書かれています。
大蔵の生涯がよくまとめられていますが其の中に大蔵の事をこのような例をひいて説明されています。

一寸失礼して一部引用させて頂きます。
『よく会津戦争や白虎隊を扱ったドラマなどで、なみいる中高年の会津武士たちを前に、若い役席者らしき者が、声を大にして、またあちこち必死に走り回って、平和ボケした藩士たちに洋式訓練の優位性を実演してみせているシーンがあったりします。その若い役席者が、大蔵です』

八重の桜を「歴史ドラマ」と思って見ている方達はこれから他のドラマでこういった場面を見た時その役席者を川崎尚之助と思うんじゃないかしらん。

たかがドラマだからどうでも良いじゃないかとも言われそうですが私はいやですね。
あれは大蔵さんのやった事です。
良く事績の残っていない尚之助を飾るため何らかのエピを創るのは結構ですが大蔵さんのやった事を持ってくるのはどう考えても作者の怠慢です。

京都守護職始末執筆のきっかけが川崎尚之助にあるとして架空の「会津戦記」を創ってしまった事に比べればまだましかも知れませんがそれでも作者の定見の無さにには恐れ入ってしまいます。

ドラマが終わってもまだ文句を言っている私も大概ですけれど(笑)

しかし「日本のドラマ(時代もの)はヒストリー・中国はイデオロギー・韓国はファンタジー」と言う言葉があるように本当の事だと思って見る方の多い事も事実ですからやはり心して頂きたいものと思います。

そう言えば当時の会津の軍制を紹介した記事の中に川崎尚之助の名を見つけました。
町人・農民たちの応募の中から選ばれ敢死隊の隊長小原信之助が戦死した後の隊長として川崎尚之助の名がありました。砲兵隊では無かったんですね。

話は会津から離れますがこのフランスの軍事顧問団は幕府と新政府軍の内戦に介入を避けた本国の意向で引き上げますが、一部の士官や下士官達は脱走して幕府軍に加わり函館まで転戦しています。
何が彼らをそうさせたのかとても興味深いので当時の事など一寸づつ読み始めています。

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浩さんの軍服

八重の桜が終わってもう1ヵ月以上立ちますがまだまだ忘れられない山川浩さん。
景虎さんと同じように多分これからも沢山登場する事になると思います。

今気になっているのは・・・今に限ってではなく・・ドラマ放映中からですけれど、浩さんの洋式軍装についてです。

陸軍に入ってからは写真も残っているし勿論陸軍の軍服ですからはっきりしているのですが、戊辰戦争の時の軍服が良く判らない。

ドラマでは襟とカフスが赤の青の上下でしたね。
ドラマの「紀行」で紹介された「絵」によると黒の上下に陣羽織と言う格好でした。

洋式化された会津藩兵はフランス式で黒ラシャのフロック型の軍服だったそうですから「紀行」の絵のとおりだったのでしょうか。

しかし浩さんが戦いの場に姿を見せるのは鳥羽伏見の戦いの時ですから会津藩がフランス式を取り入れる以前です。

この時の事は会津戊辰戦争に1月6日開戦4日目の事として「藩相内藤介右衛門、表用人山川大蔵大阪表より枚方に来る。林、白井両隊の残兵を合し大蔵其の頭を命ぜられる」とあり軍事指揮を始めて取った事が記載されていますが服装については説明無し。

この時の服装について中村彰彦さんが著書「山川家の兄弟」で広沢安宅(安任の甥)の「幕末会津志士伝」から「洋服を着け洋鞍に跨り」と引用されています。
そしておそらくロシア風あるいは幕府の軍事顧問団を派遣していたフランス陸軍の軍装、そして乗馬に便利な皮長靴だったのではないか、と。

ところが先日中村彰彦さんの「跡を濁さず 家老列伝」の中の「入城戦再び 男爵山川浩」の項に戊辰戦争時の浩さんの軍装について「青い上着、赤のズボンのロシア騎兵の軍服と」書かれているのを読みました。

「山川家の兄弟」は2000年出版(原題逆風に生きる)「入城戦再び」は2008年初出ですから新しい資料でもあったのでしょうか。

どんな軍服で戦われたのか・・・コサック騎兵の将校の服装にドラマと良く似たものがありましたがそれを参考にしたのか。
山川家のご子孫にNHKが尋ねれば判った事ではないかと思いますが、あんな扱いをする積もりだったら聞く訳には行かなかったでしょうし。

一寸資料の当たり用の無い私にはもうわかりません。
どうせ判らない事だったらフランス式の方が格好良くて良かったわ。

死にたがりの獅子 山川大蔵幕末異聞

ドラマ八重の桜は終わってしまいましたが舞台になった当時の会津や山川大蔵さんを忘れ難く、それに放送中はざっと読んだだけの本もあるので又読み返したりしています。

悪い癖で興味を惹かれた本は又何度も読みたくなって折角図書館で借りても結局買ってしまう為会津関係の本はかなりの冊数になってしまいました^^

今日又読んだのは如月弘鷹さんの「死にたがりの獅子」何とコミックです^^
主人公は勿論山川大蔵さん。

鳥羽伏見の戦いから日光口、篭城戦、そして西南戦争まで、途中斗南藩のいきさつは1頁だけで簡単に紹介されただけ、戦い続けた大蔵さんを取り上げています。

全4話、一冊の分量なので大蔵さんの一生のダイジェストになっているのは一寸勿体無いかな・・・

しかし冒頭少年時代容保に忠誠を誓うきっかけとなるエピソードを入れ、新撰組の斉藤一との友情、土佐の谷干城との交友、などドラマで見事にスルーされてしまった「良い場面」もしっかり描かれています。
勿論彼岸獅子入城のくだりでは容保さんもちゃんと登場していますよ。

知恵の山川と呼ばれ敗戦後は会津のトップに立った智将の面影は一寸薄いかな。
格好良く勇ましい「お兄ちゃん」のようです^^

でもひたすら会津の為に生きたまっすぐな大蔵さんが生き生きと描かれとっても魅力的です。

作者が主人公の大蔵さんが好きで愛情を持って描かれている事が伝わって来て素敵な作品になっていると思いました。
ドラマ八重の桜の大蔵さんは作者の悪意さえ感じられたくらい一寸ひどい扱いだったので余計そう感じたのかもしれません。

厖大な資料を読んだ中で一寸ほっとした作品でした。

やんちゃな大蔵さんとかなりのハンサムに描かれた谷干城、そして情け無い大鳥圭介など画も楽しめました。

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殿・大蔵さん・ 谷干城 

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八重の桜総集編など

一年間見続けた八重の桜、毎週日曜日のお楽しみがなくなって淋しいですね。
不満が多かったドラマですがそれでも玉山さんに定期的に会えていたのはとても嬉しかったし。

暮に録画した総集編、來l客続きで忙しくやっと見ました。
総集編になったからと言って大蔵さんの出番が増えている訳はないけれど^^

しかしこのドラマ、一年かかって何を言いたかったのでしょうか。
東北の復興支援はどこへいったのでしょうか。
最後のシーンが暗示したように現代の平和思想を言いたかったのか・・・

以前にiireiさんのブログから引用させて頂いた「歴史そのまま」と「歴史ばなれ」に話が又行ってしまうけれど、当時の人の感性・倫理を無視して現代の感性・倫理で書いては当時の人の行動を理解するのは難しいのでは。

このドラマは当時の武家の矜持、己を厳しく律した彼らの生き方が判っていないのか、あるいはわざと無視したのか・・・
架空の人物なら良いでしょうが全員が実在した方々です。
様々な場面で違和感を感じる事が多かったです。

倫理と言えば作者に一番欠けているのが倫理観ではないでしょうか。

山川大蔵さんの話が見たくて注目していたので余計気になったのかと思いますが、川崎尚之助がどのような人間で会津でどのような事をしたのか、話を創らないで大蔵さんの事績をそのまま持って来てしまう。
洋式訓練の指導の横取り。
斗南藩での米代金を詐取された時の話の創り方。

一番酷いのは山川兄弟の労作「京都守護職始末」の成立を横取りするような「会津戦記」の捏造。
自分で話を創らなければ駄目でしょう。
その「会津戦記」は「総集編」では省かれていたから抗議が多かったのでしょうか。
でもそのお陰で全部健次郎さんの手柄になってしまっていたけれど。

それと些細な事ですがずっと気になっていたのは京都で覚馬の梶原平馬や大蔵に対する偉そうなな態度です。
日新館で教えていたからですか。しかし相手は家老であり表用人です。上司に対する態度とは思えないけれど。。
川崎尚之助に関してもです。川崎先生と呼んでましたね。
戦場では指揮官と部下でしょう
日新館での教師はすべてに優先するのでしょうか・・・

最後迄文句を言ってしまいましたが、これで打ち止め!と思っていますがしつこい私、どうなりますか^^

明日(もう今日ですね)朝「ボクらの時代」出演が待っています。
そして出番はほんの少しらしいけれど「ジャッジ」も。

八重の桜を見終わって

1年長かったようですがとうとう終わってしまいました。

大河ドラマは両親が好きだったので物心ついた時から途中で挫折した作品もあったけれど欠かさず見ています。
内容を覚えているのは何才くらいからでしょうか。黄金の日々、草燃えるあたりかな。

最近途中挫折したのは竜馬伝。あまりの汚さについて行かれませんでした。
そして次の清盛。これもおかしな解釈が目立ってがっかりする事ばかり。

その分八重の桜には期待が大きかったです。
今迄書かれた事のない会津目線からの幕末も楽しみでしたし、何より玉山さんが重要な役(と当時は思ってました)出演されると言う事でなおの事期待が膨らんだのでしたが・・・

始めは良かったですねえ。
追鳥狩のチビ八重ちゃんと3人の幼馴染、そして優しい若殿とすべり出しは上々と思われました。
最初に引っかかったのは早くも第3話、覚馬が鉄砲を侮辱され二人の藩士と道場で立ち会うシーンでした。相手は襷だけなのに覚馬はもろ肌脱ぎ、バランスも悪いのに俳優の見事な体を見せたかったから?ここで先行きに少し不安が・・・
まあそれはそれでおいといて。

一番気になったのは主人公八重の character。
銃を扱うきっかけが若殿様に忠義を!からだったと思ったのですが。
家事は苦手で力持ちで男勝りなはずがいつの間にか裁縫も上手な単に銃が好きなだけの優しい普通の娘になってしまっている。

それと「武士の娘」がどのようなものか作者はお分かりだったのでしょうか。
京都で薩摩から来た女子学生に土下座するシーンは何故そうなるのか理解しがたい話でした

容保もそうです。作者は主人公を間違えているのでは、と思うほど尺を使って書いていますが、優柔不断な情け無い人にしか見えませんでした。
優しい人柄と情けなさとは違うと思います。
特に最後、御宸翰をいつか世に出して欲しいと言うのは潔さが見えなくて残念な描写でした。
残念と言えば敵中突破して帰城した大蔵さんを迎えるどころかお褒めの言葉もない。
こんな主人があるでしょうか、どこか間違っています。

大蔵さんについては玉山さんが演じている上、実際の大蔵さんが大好きになってしまったため見る目が曇ってしまったかもしれないのでもうここでは言いたくないのですが、やはり言いたい^^
この作者は自分で話を創らないで手っ取り早く大蔵さんのした事を他の人のエピにしてしまった。
尚之助の会津戦記は・・・これはもう最低の出来事でした・・・
他の事とも併せて良く山川家のご子孫が黙っていらっしゃると・・・

会津の降伏まで8ヶ月もかけながら、どうして会津がそこ迄追い込まれたのか説明不足でしたね。無駄な・・と思う・・シーンも多いのに。

細かい事かも知れませんが「のどに小骨が刺さった」と言う言葉がありますがそんな気分にしょっちゅうさせられていましたね。

とにかく会津藩と言う武家社会を舞台にしながら武士がどのようなものか作者は余り考えていないように思われます。

これは以前あるブログで拝見したのですがとても共感したので引用させて頂きます。
「利家とまつ」と「秀吉」の批評で森鴎外の言葉として次のように書かれています。
http://d.hatena.ne.jp/iirei/20090829

歴史を扱う小説には2種類ある。一つは、その時代の感性・倫理をそのまま扱うという「歴史そのまま」と、現代人向けにアレンジした=当時の感性と倫理を無視して現代人提供する「歴史離れ」があるというのです

このドラマはまさにその「歴史離れ」かと。

会津藩の人達の名前と背景だけ借り史実をおろそかにして現代劇を作ってしまった。

当時の感性と倫理を無視するなら史劇を取り上げる理由は無いのでは、と私は思います。その当時人はその立場立場でどのように生きたか、を見たいと思うのです。
異論はあると思いますが私がこのドラマに不満なのもそれが大きな理由です。

まあそれを言うならこの所の大河ドラマは皆そうですけれどね。

文句ばかり言いましたが明治時代教科書にまで逆賊と載せられていた会津藩を正面から取り上げた事はとても良かったです。
不勉強で知らない事が多かったのですが玉山さんに惹かれてせっせとお勉強したせいで当時の事にかなり詳しくなりました。
会津藩の素敵な方々も沢山知りました。
広沢安任さん、秋月悌次郎さん、特に山川浩さんは上杉景虎さん以来最大のお気に入りになりました。
景虎さんの鮫ケ尾城址は遠くて中々お参りに行かれませんが山川家の墓地は実家のお墓と同じブロック、すぐ近くです。
これからもお参りさせて頂きたいと思っています。変なドラマに登場させてごめんなさいと言いたい。私の責任ではないけれど^^

八重の桜 第50話 いつの日も花は咲く

第50話 いつの日も花は咲く

とうとう最終回迄来ました。
前回も書いたけれど本当に良く最後迄(我慢して)見たものです。

明治27年、八重は広島の陸軍予備病院で看護婦を率いて働いています。
兵士達にもある女性への偏見をたしなめ、敵である清国兵も平等に看護する八重の様子。難攻不落と言われた旅順要塞を一日で攻略するなど戦いは日本に有利に進んでいるようです。
そして新聞記事の取材に徳富蘇峰が来ます。士気を鼓舞する為勇ましい話ばかり取材する蘇峰に抗議する八重ですが蘇峰は取り合いません。何だか現在の一部マスコミの傲慢さを見るようで複雑、そして一寸可笑しかったです。

蘆花も一寸出て来ます。体勢に流されると兄蘇峰を批判、自分は小説の中で真実の人間を書くと言います。がその小説の題名が「不如帰」
大山捨松をモデルに意地の悪い継母に仕立て上げ彼女を終生苦しめた小説を「人間の真実を書く」としたのはどういう意図があっての事でしょうか。ドラマ制作者と脚本家にお聞きしたいものです。

翌28年日本の勝利で戦争は終結します。
京都へ帰った八重が男しか嗜まなかった茶道に傾倒して行く様子が何にでも率先して挑む姿として書かれています。

そして佐久が亡くなり、襄の母登美も又世を去ります。

明治29年。
八重は広島での働きが認められて勲七等宝冠章を授けられます。
皇室以外の女性では初めての叙勲でした。
警視庁で剣道の指南をしている今は藤田五郎を名乗っている斉藤一の所へ八重の叙勲を新聞で知った時尾と二葉が知らせに来ます。
やはり浩との交流は見事にスルーでした。

その浩は会津の名誉を回復する為執筆中の記録とご宸翰の存在を世に出す時期ではないかと健次郎に言います。
そして自分の命が長く無いことを感じたのか(そのような言葉はなかったけれど)健次郎に後を託します。

浩の死はナレーションで。
若い時から藩の命運を背負い藩士達を一生支え続けた、と。
しかし浩にスポットを当てた回は一度もありませんでしたね。復興がテーマならもっと重要に扱って欲しい人だったのに。

慶喜のその後も。
明治天皇に拝謁もかない名誉を回復した慶喜でした。
勝を相手に会津を見捨てたと述懐する慶喜。しかし実は堅い絆で結ばれた会津の主従だ羨ましかった、自分には手に入らない物だからと・・・何故手に入らないのかは一寸説明不足では・・・

浩の遺志を継いで会津の名誉を回復すべく健次郎は「京都守護職始末」の発刊を決意しますが大山巌に発行を見合わせるように、と言われます。

何故大山なんですかねえ、最も谷干城を登場させていないのですから事実通りには出来ないけれど。
発行見合わせと引き換えに困窮していた旧主松平家への援助を政府から取り付けた話も当然無視でした。
山川兄弟が書き継いだ「京都守護職始末」が世に出るまでには10年の月日」を要した、とナレーションで簡単に。
まあ川崎尚之助の名を出さなかっただけまだましかな。

その頃八重は会津へと向かいます。
桜の木の下で会津に戻っていた頼母と再会。

頼母に何しに会津へ帰って来たかと問われた八重は「又戦が近づいている、平和な時は来ないのか・・・会津で考えたくなって戻って来た」と答えます。
頼母の答えは「新政府がどんな国を作るのか見届けようと生きて来た。しかし戊辰以来自分の目に焼きついたのはどんな時も生きようとする人の力だった。
花は散ってもまた花を咲かせる何度でも・・・八重、何度でも花を咲かせろ」

これが「八重の桜」だったんですか。
秋月悌次郎の「今年の落花は来年咲く種とやら」を連想してしまった私はすっかりひねくれてしまったようです。

京へ帰った八重は蘇峰を茶に招きます。
時代は言論と言う大きな力を得た、これからは言論が人を動かす時代が来たと言う蘇峰に八重はその力を何に使うのですか、その大きな力は未来を切り開く為に使わなければいけない、と言う八重。

「昔私は銃持って戦った。最後の一発まで、一人でも多くの敵を倒す為に、しかしもし今最後の一発を撃つとしたら・・・」
現実の八重の前で回想の八重は空に向かって発射します。
そして降る花はオープニングの傘に・・・
昭和七年新島八重死去、86才。

終わり方は綺麗で良かったですが何を言いたかった一寸判り難いですね。

「京都守護職始末」についてドラマの中でなく紀行で一応ちゃんとした説明がありました。
勿論川崎尚之助についての言及はなし。

最後の最後迄かなり不満を書いてしまいました。
けれども今迄白虎隊か、京都守護職時代は新撰組絡みでしか取り上げられなかった会津藩を会津の立場から取り上げてくれた事だけは良かったですね。

出演者の皆さまお疲れ様でした。
そして玉山さん
山川浩の役はとても似合っていたし、素敵な場面もあったし、本当にお疲れ様でした。

全編通してもう一回感想を書いてみるかもしれません。

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このまま次元で登場するのかしら

晩年の浩さん

明日15日で最終回です。
50回、まあ良く見続けたものです。
最初2ヶ月くらいは期待してかなり好意的に見ていましたが舞台が京都に移ってからは、特に浩さんに関しては期待はずれ、の事ばかり。
愚痴や文句が多くなりましたがそれでも終わってしまうと思うと淋しい・・・勝手ですね。

それでと言う訳ではないけれどドラマで取り上げてくれなかった浩さんの晩年を少し追ってみようと思います。勿論頭の中にある浩さんは玉山さんです^^

明治16年。ドラマでは第43話「鹿鳴館の華」
浩さんは大佐で陸軍省人事局長です。
問題の腕相撲の回ですが八重をどうしても絡ませたかったのでしょうが一寸酷い展開でしたね。会津は賊軍だから、と固辞する浩に大山が従兄弟で西郷隆盛の弟従道を使者に立て自分も賊軍の身内だ、と交渉する事実の方がずっと面白いのに

明治19年。ドラマでは「不義の噂」覚馬と時栄の離婚の回でした。

ドラマでは取り上げられなかった浩さんですがこの年はかなりの変化のあった年です。
まず文部大臣森有礼に乞われて陸軍在籍のまま東京高等師範の校長に就任。
続いて姉二葉が舎監として勤務する東京女子高等師範の校長も兼務。
人格識見を高くかわれていたんですね。
更に陸軍少将に昇進。陸軍で会津出身者では始めての将官ですね。
この昇進に長州出身の山県有朋が「山川は会津出身ではないか」と激怒したと言われています。
山県が欠席した会議で昇進を決めた為山県が激怒、天皇の勅許を頂いたと云う話を読みましたが何で読んだか忘れました。

明治23年。
第一回の総選挙に出馬しますが落選、しかし一ヶ月後勅撰の貴族院議員に任じられ、軍人、教育者に更に政治家の顔が加わります。

明治24年。
従三位となりますが健康を害して教職を辞任。
別荘で療養生活に入ります。
まだ40代ですが若い時から責任者として藩を支え続けた苦労が、特に斗南での辛苦が健康を蝕んだのでしょうか。
なお浩さんは旧主松平家の家政を見ていましたが替わって健次郎が見る事になりました。

明治26年。第49話
容保薨去。
でも病床で山川兄弟にご宸翰を見せて機を見て世に出して欲しいと言うのは創作ですね。
それより孝明天皇の皇后英照皇太后からお見舞いを賜ったお話の方が・・・

明治27年。日清戦争勃発。
49話であっと言う間にすぎてしまいましたが清国と交戦。勝利します。
大本営が置かれた広島で臨時議会が召集された為貴族院議員の浩も出席しますが、この広島行きが病状を悪化させた、と伝えます。
なおこの時浩は参戦したいと申し出ますが大山巌から万一の時将官の死は全軍の士気に影響すると忠告され思い留まっています。多くの顔を持つ彼ですがやはり武人として全うしたかったのでしょうか。

明治30年。
1月、孝明天皇30年式年祭が宮中で行われ浩も参列し、健次郎の家に泊まり兄弟の間でご宸翰を世に出し会津復権をはかりたいと「京都守護職始末」執筆の話合いがなされました。
元になったのは松平家所蔵の会津藩が京都守護職在任中に作成した藩の記録である「会津藩庁記録」です。
これは一時所在不明でしたが会津藩士南摩綱紀が京都中学に勤務中に発見したと言われています。
川崎尚之助の入り込む余地など全くありません・・・又言っています^^
健次郎さんが覚馬に取材する事も有り得無い。
まあ全部山本家に関係付けたいのでしょうが。

南摩綱紀は秀でた漢学者で東京帝大、東京高等師範の教授を歴任していますから山川兄弟との接点がありますね。

明治31年。
男爵に叙せられ華族となります。
「京都守護職始末」執筆を始めた浩ですが、病状が悪化、後を健次郎に託して52才で亡くなりました。
中村彰彦氏は「山川家の兄弟」の中で薨去と記されています。
浩さんは三位ですものね。
快男子と言って良いですよね。波乱万丈の一生でした。

それと浩さんのもう一つの才能、歌を良くして桜山集と言う歌集を残しています。
近代デジタルライブラリーで見る事が出来ますので興味のおありの方はご覧になってみて下さいませ。

ここまでお読み下さいました方、私のストレス解消にお付き合い下さいまして有難うございました。

多くの本、資料を参照しましたが主に中村彰彦氏の「山川家の兄弟」から使わせて頂きました。著書の中に出典を示していらっしゃいます。
それと星亮一氏の「会津将軍山川浩」の巻末に載せてある年表も参考にさせて頂きました。

八重の桜 第49話 再び戦いを学ばず

第49話 再び戦いを学ばず

明治23年教育勅語が発布されます。
世情は戦争に向かっている様子ですが、何とも説明不足。
どうして日本が清国と戦争になるのか良く判らない・・・

ドラマは関係者の収束にかかって駆け足の展開です。
まず覚馬が亡くなりました。
同志社の総長だったんですね。すみませんきちんと見てなくて・・・

そして容保が亡くなります。
山川兄弟を呼んで孝明天皇のご宸翰を見せ、いつかご宸翰を世に出して欲しい、会津がいかに誇り高く戦ったか、死んでいった者達の事を。
再び同じ道を辿らない為の戒めとしても・・・とご宸翰を二人に託します。

そして日清戦争が始まり八重は日赤の看護婦として広島へ。

「京都守護職始末」について
心配したとおりになりました。

浩に川崎先生の遺志を継いでと言わせるなんてあんまりです。

どうしても尚之助が「会津戦記」を書き残した事にしたければ、「京都守護職始末」に関係付け無いでするべきです。
山川大蔵がこの架空の「戦記」を読んで涙するシーンがありましたが、あくまで篭城戦の一節、妻の死の場面で涙を落とすのならまだ許せますけれどね。大変不愉快ですけれど。

大体「京都守護職始末」は戊辰戦争の際会津藩が京都守護職についていた時の立場なり経緯なりを明らかにしたもので当時の会津藩の公文書が元になっている筈。
一介の下級藩士の尚之助には関わりはなくまして篭城戦とは関係ないはずでしょう。

それと容保は生前誰にもご宸翰の所在は明かしていませんでした。常に身に付け亡くなったあと遺体から見つかったとのこと、ドラマのこのような経緯にしたら容保の潔さと言うか人間像が変わってしまうではないかしらね。

何度も言うようですが創作は結構。
しかし実在の資料に関わるような事は絶対にして貰っては困ります。

この事については又書いて見たいと思います(しつこい^^)

NHKさん
『この「会津戦記」はフィクションです。これに関する一切の件は史実とは関係ありません』
と今からでも良いから入れて欲しいものです。

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蛇足です。
覚馬が教育勅語の「国家の危機の際は天皇に忠誠を尽くすべし」にクレームをつけていましたね。只、以前両親に聞いた教育勅語には天皇に忠誠を云々の文言はなかった思ったので調べてみました。
無いですねえ。克く忠にと言う言葉はありますが。まあ忠にの対象が天皇を指すのでけしからんと言う事なんでしょうか・・・・
しかし当時天皇は国家元首です。当然ではないのでしょうか。

私は小学校に入学した頃に聞いて「けいていにゆうにほうゆうあいしんじ(兄弟に友に朋友相信じ)などと唱えては妹と面白がっていたものでした。
両親は学校で教育勅語を暗記させられた最後の年代でそんな事から話題になったんだと思います。

今全部読んでみると、当時とでは天皇のお立場も変わられたり政治形態も変わって微妙な部分もありますが他は良く出来てますね。
人間として守らなければいけない事すべて入っているのではないかしら

この作家の方の年令はわかりませんが、多分私と同年代かと。
日教組の教育で育った年代かなと妙に納得しました。

続・史実と創作と

一年間続いた八重の桜もあと2回を残すだけになりました。
大河ドラマは殆ど毎年見ていますすがこんなに熱心に見たのは天地人の御館落城までと今回だけ、勿論玉山さんお目当てです^^

期待しただけにがっかりする事も多かったけれど少なくとも月に数回は会えてそれはそれで楽しかったですけれどね。

明日は予告から見ると「京都守護職始末」を書き残すシーンがあるようですが、以前から言っているように心配が・・・
このドラマで創作された川崎尚之助作「会津戦記」がどんな役割を果たすのでしょうか。

現在でも「会津戦記」が実在の資料と思っている人が沢山います。
後年「京都守護職始末」はこの会津戦記に触発されて書かれたと思い込む人がもっと沢山出たらどうしましょう。

ドラマですから史実どおりに作らなくても、お話を創ってもそれはそれで良いと思います。

実際は山川大蔵がフランスの士官に習い国許で教えた洋式訓練が尚之助になっていた事などは大蔵ファンにとっては不愉快ではありますけれどまあ仕方がないと思います。
ですが資料に関わる事には手をつけてはいけないのではないか、少なくとも実在の資料と紛らわしいものは創ってはいけないのではないかと私は思います。

私の好きな上杉景虎についてですが最近まで上杉に行く前に武田家に人質に行っていた、と言う説が有力でした。
今は研究が進んで武田家には行っていないと言う事になったようです。
それは武田、北條両家にその記載がない事、信頼度の高い江戸前期の軍記物には見られず江戸中期成立の「関八州古戦録」にしか記載が無い事から「関八州古戦録」の作者の創作と見られている、との事です。(黒田基樹著、「北條早雲とその一族」)より。
つまりかなりの間「関八州古戦録」の作者の創った話が信じられていた訳ですね。

このように後年、「京都守護職始末」や「会津戊辰戦史」を尚之助の功績のように思われたら山川兄弟に大変失礼な事になるのではないでしょうか。

今は紙に記録するしかなかった昔と違い色々な記録方法がある時代ですから別に心配するような事ではないのかも知れませんし、過敏に反応しすぎなのかも知れないのですけれど・・・とても気になるのでつい書いてしまいました。

八重の桜 第48話 グッバイ、また会わん

第48話 グッバイ、また会わん

八重を置いて関東で募金活動をしていた襄は病状が悪化、大磯の旅館で静養しています。
八重には知らせるな、と付き添う小崎と蘆花に口止めする襄ですが覚馬宛てに届いた手紙から様子を察した八重は大磯に駆けつけ・・・襄は八重に看取られて息を引き取ります。

今回のタイトル「グッバイ、また会わん」が襄の最後の言葉と言われています。

自分が亡くなった後の八重を気遣う襄に八重は言います。
私は守られて生きるような女ではない・・・でも今はまだ別れたくない。
この八重の言葉は悲痛です。

襄は47才、一生を戦ってすごした人生だったんですね。
まあそれを言うなら山川兄弟はじめ会津の人々も戦って生きた人達ばかりですが。

襄の死後、日本赤十字社が篤志看護婦会を発足させ東京では捨松が中心になって活動を開始していました。
覚馬は八重に東京に行って赤十字の精神と最新の看護技術を学んで来るように言いますが八重は襄が淋しがるから京を離れたくない、と言います。
覚馬はお前はそんな情けない女だったのか、敵味方の区別無く傷ついた者に手を差し伸べ悲しみ悩む者に寄り添う赤十字の精神こそ襄の作ろうとした世界ではないか、と叱咤します。
覚馬に言われて上京、大山邸で講習を受け篤志看護婦活動を志す八重。
最愛の夫に先立たれ悲しみに浸っている者の描写としては当然なのかも知れませんがこの八重さん像は私には違和感ありすぎでした。

今回は襄の別れの回ですが平行して会津の人のその後も少々語られます。

まず秋月悌次郎
熊本の第五高等学校の教師として赴任する途中京の山本家を訪問します。
教師を受けたのは襄の同志社設立に刺激を受けて・・・だそうです。

そう言えば八重と再会した捨松はアメリカで勉強の楽しさを知ったの新島先生のお陰と言いますね・・・

そして梶原平馬
同居していた水野貞が山川家に訃報を伝えに来ます。
根室で子供達を教えながら平凡に暮らしていたと。只会津の敗戦の責任はすべて
自分にあると常に言っていました、と。
京で二葉に贈った童人形を効果的に使って別れた息子を思う平馬の気持ちを書いていました。
平馬と貞の関係は何も説明がなかったですね。
その後彼女は小学校の校長になるのですが。
しかし後妻が前妻に訃報を伝えに来ますかねえ。

今回浩さんはほんの一寸出番がありました。
もう体を悪くしている設定なのかかなり弱弱しく老けた感じを受けました。
軍に在籍したまま乞われて東京高等師範と女子高等師範の校長に就任していた事は触れないのかな。

書かれてない事ですが教育者ばかりの今回でした^^

右の写真は平馬さんの回想シーンの場面でチラッと写った京都時代の大蔵さん

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